首都高速中央環状線からも見える江戸川区中川沿いの第一三共葛西研究開発センター。昔は工場でした。

困難な時にも良薬を届け続ける。「第一製薬」4工場の誕生と成長のストーリー

2023年09月29日
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現在、第一三共は東京に2つの研究所をもっています。そのうちの1つ、葛西研究開発センターの起源は「第一製薬株式会社」の船堀工場です。複数あった工場のうち、船堀工場が葛西研究開発センターとして残るまでには、紆余曲折の歴史がありました(もう1つの研究所、品川研究開発センターのストーリーは、こちらから)。

 

Arsemin Shokai's Yanagishima Factory in 1915, Tokyo

初期の柳島工場

梅毒治療薬サルバルサンの国産化に挑戦。柳島工場での製造開始

第一製薬が製薬を開始したのは、株式会社になる前の「アーセミン商会」が開いた柳島工場(本所区柳島元町。現在の墨田区)でした。1915年に慶松勝左衛門(けいまつしょうざえもん)博士が国産試製に成功した梅毒治療薬、サルバルサン(登録名称:アーセミン)製造のための施設が始まりです。

柳島工場は当初、慶松博士の友人でサルバルサン生産の協力者、榊原常吉が経営するツヨール商会の土地を借りて建てられた小さな作業所でした。1916年末に開発した「ネオネオアーセミン」が好評を博したこと、1917年にはツヨール商会の工場が移転したこともあり、単独の看板を出せるように。二階建ての木造工場やレンガ造りの倉庫などを新築し、柳島工場は拡大していきました。

1918年に、組織変更によって第一製薬株式会社が誕生すると、工業薬品の製造も開始。柳島工場は増築を重ね、一時期は生産力を開始当初の3倍にまで拡大し、「ボスミン」をはじめとした新薬も展開していきます。ところが、1923年9月1日に関東大震災が起こり、第一製薬も大きな被害を受けました。すぐに仮事務所を用意し、翌年の初めには事務所兼倉庫・宿舎を新築して従業員もほぼ全員が復帰しますが、3年も経たない1926年の区画整理で、工場の敷地縮小と本社移転を求められてしまいました。

戦時下の需要増に対応し、続々と工場を開設

そうした状況でも薬の需要に応え続けるため、製造能力を落とすわけにはいきませんでした。そこで、ツヨール商会の榊原が経営するもう1つの会社、江東製薬株式会社の工場があった南葛飾郡亀戸町の土地を1929年に買収し、「亀戸工場」を開設。そこでは、柳島工場で製造されていた抜染剤「アルバライト」や漂白剤「ハイドロサルファイト」の製造を行いました。

しかし、国産医薬品の需要の高まりもあり、柳島・亀戸・京都(当時)の3工場でも対応しきれない状態に陥ります。その対策として、1938年には江戸川区南船堀町に「船堀工場」を開設。ハイドロサルファイトを中心とした工業薬品類の製造ができる場が増えたことで生産力が増し、睡眠剤などの新製品も開発できるようになりました。

それ以降も医薬品の需要は衰えず、1942年には江戸川区平井にあった閉鎖予定の工場を譲り受けて「平井工場」を開設し、元の工場で作られていた亜硫酸ソーダと睡眠剤を製造。翌年には吸収合併した会社の工場疎開や編入を行い、原料薬品製造を継承してさらに事業を広げていきました。

東京大空襲で打撃を受けるも、船堀工場を中心に復活

順調に成長を続けていましたが、1945年に状況が一変します。東京大空襲により、本社はほぼ全焼、柳島工場は8割を焼失、平井工場は主要部を含み半焼、亀戸工場は一棟を残すのみと大打撃を受けたのです。

しかし、幸いにも本社社屋地下の金庫室は無事で、設備・規模が最大だった船堀工場は奇跡的に被害を免れていました。そこで、船堀工場を拠点に生産体制の立て直しを図ることに。戦後のインフレ進行による原料資材不足や価格高騰などに見舞われながらも、1946年にはハイドロサルファイトなどの製造を再開。続いて、主要原料であるジギタリスを自家栽培して強心剤「アヂスチン」を発売しました。

その後、最も被害が大きかった亀戸工場は、周辺の緑化計画もあって廃止・分散されたものの、柳島工場と平井工場は再開し、復活を遂げたのです。

困難な中にあっても、人々の健康に貢献しようと尽力してきた第一製薬。その情熱と行動力は、今の第一三共にも受け継がれています。

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