第一三共の前身のひとつに第一製薬がありますが、実は「第二製薬株式会社」もあったことをご存知でしょうか。第二製薬は1920年に誕生し、わずか3か月でなくなりました。しかし、それは計画通り。増資と事業拡大のための策でした。
新会社設立・合併により、効率的な増資を実現
第一製薬が発足したのは、第一次世界大戦が終わった1918年でした。戦後の不況が続き、2年後の1920年3月15日に信用株式市場が大暴落したのを皮切りに、日本経済は恐慌状態に陥ります。
そのような状況でしたが、第一製薬は合資会社アーセミン商会から株式会社へと組織変更し、資本と内容の充実を図ることで、不況の影響を最小限に抑えることができていました。「アーセミン」として名称登録したサルバルサン(梅毒治療薬)や、その研究を進めて生み出した「ネオ・ネオ・アーセミン」の販売は好調で、それらの大量生産及び原料のハイドロサルファイトをはじめとした工業薬品部門への本格進出、そして新薬製造のためにも、増資を必要としていたのです。
しかし当時の商法では、株式会社を設立する際は、資本金の4分の1を払込めば可能ですが、増資するにはまず、残額の払込み完了が必要でした。つまり、増資する前に元の資本金の残額を払い込まなければならなかったのです。そこで、より効率的な増資の手段として、新会社設立という方法を活用することにします。1920年3月1日、資本金150万円(うち4分の1払込み)の「第二製薬」を設立。同年6月25日の臨時株主総会で、この第二製薬の吸収合併を決定しました。この合併により、第一製薬の資本金を50万円から4倍の200万円(うち4分の1払込み)とすることができたのです。
かつて断念したネオサルバルサンの事業にも着手
第二製薬設立の発起人の多くは、第一製薬設立の発起人と重複していました。その中に新たに加わったのは、匿名組合国産製薬所の代表・藤永義之(現藤永製薬株式会社の前身である藤永薬品商会の創業者)です。藤永の参画には、単に増資をするだけではなく、国産製薬所を買収するという目的がありました。実際、第二製薬設立からわずか5日後、第一製薬は国産製薬所を買収して事業を引き継ぎます。
国産製薬所は、丹波敬三博士が完成させ、服部健三博士が改良を加えたサルバルサン「ネオタンワルサン」と「純ネオタンワルサン」を製造する目的で設立された会社でした。「タンワルサン」の名称は、創薬した丹波博士の苗字“タンバ”と“サルバルサン”を組み合わせたもの。そして、タンワルサンには、第一製薬が前身のアーセミン商会の頃に注目していたものの、試製した薬の効果が低かったために採用を見送っていた「ネオサルバルサン」が使われていました。
その事業を引き継いだことで、第一製薬はそれまでのアーセミンとネオ・ネオ・アーセミンに加え、ネオタンワルサンと純ネオタンワルサンの製造販売に着手。かつて断念したネオサルバルサンの事業化を実現させました。そうして製品ラインを充実させ、サルバルサンのトップメーカーへと成長することができたのです。
不況を乗り越え、一度は断念した事業にも再挑戦し、良薬を作るという意志を貫いた第一製薬。その熱意や粘り強さは、今の第一三共に受け継がれています。