現在の品川研究開発センター。フロアから新幹線や、時にはドクターイエローを見ることができます。
第一三共は全国各地にオフィスや工場、研究所があります。そのうちの一つ、東京行きの東海道新幹線で、品川駅到着前に右手に見える品川研究開発センターがある場所は、かつて、第一三共の前身のひとつ「三共株式会社」の主力工場「品川工場」でした。今回は、現在、愛知県の博物館「明治村」でご覧いただける、品川工場の物語をお伝えします。
愛知県の「博物館 明治村」に移設された旧品川工場。 塩原が購入した当時の赤煉瓦造りの建物です。
三共の前身である三共商店は、1899(明治32)年に創設されました。アメリカで高峰譲吉が開発した胃腸薬・タカヂアスターゼの販売から始まり、続いてアドレナリンを発売。同時期には、米国パーク・デービス社(現ファイザー)の日本総代理店にもなりました。そしてついに、製薬業へと乗り出します。
1905年に初めての工場を箱崎に開設し、栄養剤・グリコナールや乳酸菌製剤・ラクトスターゼなどの薬を次々に製造すると、その工場はすぐに手狭になってしまいました。さらなる生産力の拡充を考えていた三共商店の創設者 塩原又策は、品川にある元官営の硝子製造所が空いていると耳にし、下見に向かいます。しかし、そこは予想以上の広さ。平屋の赤煉瓦造りの3棟の建物で、実に箱崎工場の約10倍の大きさでした。
行動力のある塩原もさすがにためらいましたが、「この程度の工場を使えるようにならなければ、製薬業に乗り出した甲斐がない」と、1908年に買収。品川工場として開設しました。
稼働当時の品川工場
翌年秋に本格的に稼働し始めた品川工場ですが、当初は順調とはいきませんでした。箱崎工場にあった設備や製造品目の多くを移管しても、広い工場は閑散とした状態だったのです。このままではいけないと感じた塩原は、開設から2~3ヵ月後に工場の1棟を改造して移り住みます。それからは毎日工場を巡って指示を与え、日本橋室町の店舗へ出向いて営業の指揮をとり、また工場に戻るという生活になりました。妻の千代も、数十人の従業員の食事の準備などを担い、工場の運営をサポートしました。
その後、当時の薬学界の最高峰として知られていた下山順一郎薬学博士に学術顧問を委嘱。開設から3年後には、以前ご紹介した鈴木梅太郎博士のオリザニン液の製品化を成し遂げます(鈴木梅太郎博士のストーリーはこちらから )。その頃には、工場内に薬品試験室のほか、錠剤室をはじめとした製剤諸室や乾燥室などを備え、設備も充実。皮膚薬・チオノールやグリコナールなどの医薬品を製造できるようになっていました。そして工場の前途に目途がつくと、塩原と千代は飯倉片町(現・港区六本木内)の新居へ移ります。品川工場はそれからも成長を続け、三共の主力工場になっていったのです。
後にわかったことですが、品川工場の建物は、塩原と不思議な縁がありました。工場がまだ硝子製造所だった頃、その主管を務めていたのは、妻・千代の祖父の大鳥圭介だったのです。また、工場の煉瓦造りの煙突は、かつて大鳥が校長をしていた頃の工部大学校に在学していた高峰らが、勤労奉仕で築造したものでした。まるで、工場と塩原を引き寄せ合う、運命的な出会いだったかのように感じられます。
さまざまな医薬品を安定的に生産し、人々へ届けられるようにと塩原夫妻が守り育てた品川工場。現在も第一三共の品川研究開発センターとして稼働し、研究者たちが多様な医療ニーズに応える革新的な医薬品の研究開発に取り組んでいます。
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世界初のアドレナリン結晶化にも成功。様々な分野で新たな道を切り開いた創業者・高峰譲吉
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