ネオ・ネオ・アーセミンの広告と慶松勝左衛門

医薬品の国産化に挑戦。若き技師たちが挑んだ「国産サルバルサン」

2022年10月25日
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現在は薬局のほか、スーパーなどでも当たり前に国産の医薬品を購入することができますが、かつての日本はそうではありませんでした。その状況を大きく変えることに貢献した会社のひとつが、第一三共の前身のひとつである第一製薬株式会社となるアーセミン商会です。

輸入に頼っていた医薬品を国産化へ。「アーセミン商会」誕生

1900年代当時、日本の医薬品の多くは、海外から輸入されていました。1910年代に第一次世界大戦が起きると、それが届かなくなり、需要の高い薬は価格が暴騰する事態となりました。そこで内務省(当時)は、医薬品の国産化に乗り出し、民間の製薬会社も設立され始めました。

その頃に品薄だった薬のひとつが、サルバルサン(一般名アルスフェナミンの商標)。ドイツ人パウル・エールリッヒ博士と、日本の秦佐八郎(はたさはちろう)博士による共同研究で、1910年に発表・実用化された梅毒治療薬でした。1912年に第一三共の前身の一つ、三共商店(当時。翌年1913年に第一三共の前身の一つである三共株式会社となる)がドイツから輸入し始めたものの、梅毒の蔓延により品不足の状態。加えて、戦争が原因で、輸入自体も止まりました。

そのような中、中国の南満州鉄道(満鉄)中央試験所(現在の中国遼寧省大連市にあった満鉄直営の研究所)の慶松勝左衛門(けいまつしょうざえもん)が「サルバルサン」試製に成功し、事業化に乗り出しました。1915年6月には、サルバルサンを「アーセミン(Arsemin)」として名称登録し、同年10月に匿名組合「アーセミン商会」を東京・日本橋に設立します。

技師たちの長い研究の結果、製品化に成功

しかし、その後のサルバルサンの製品化は長い苦難の道のりとなりました。アーセミンは水に溶けにくく、大容量の静脈注射剤しかできないため、注射時のときの痛みが強いという課題がありました。その解消のために研究が進められ、筋肉注射も可能なように試作したものの、効果は低いという結果に終わります。

そこで、満鉄中央試験所でサルバルサンなどの試験に携わっていた、盛口準二郎をはじめとした3人の若い技師が急遽日本に呼び寄せられ、研究を担当することになったのです。当時の木造平屋の工場は、蒸留器と実験台があるぐらいの簡素なものだったため、工員の募集や、器具・原料薬品などの調達を行ってから、1915年12月1日にようやく研究が開始されます。

技師たちは、それまでは小さな器具で行ってきたことを、慣れない大きな鉄製の容器などを使い、かつ、質のよい原料もない中で対応しなければなりませんでした。1916年3月頃までの4ヵ月間、朝8時から翌2~3時まで研究・作業する日々が続きます。寒い時期でしたが、一部薬剤が火気厳禁のため、火で暖を取ることもできず、「雪のチラチラ降る夜などは、さすがに若い身空にもこたえたが、とにかく必死だった」ということが盛口技師の手記に残っています。

研究を開始した1915年12月の下旬には、少量で使用できるアーセミンができましたが、動物実験の結果では副作用が強いと報告され、さらに研究が続けられることに。半年後には満鉄中央試験所の池田文次技師が日本の初代工場長に着任し、製造指導にあたりました。そして1916年9月、ついに「ネオ・ネオ・アーセミン」が完成。動物実験・臨床試験ともに結果が良好で、有効性が証明され、販売が開始されると、医師たちの間でも「他社よりも溶けやすく扱いやすい」と評判になりました。

良質な薬を日本の人たちに届けたいとイノベーションに挑戦した博士や技師たちの長きにわたる努力が、しっかりと実を結んだのです。

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